KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

知ったことではないと世間は言う2


ホセ・メンドーサとの戦いに臨む控室で、白木葉子矢吹丈を引き止める。
カーロスが辿った末路を考えて、あなたにパンチドランカーになってほしくない、だからホセと闘わないでと白木は言うが、矢吹はきっぱり言い放つ。
「あんたがカーロスのことを口にしちゃいけねえ、あんたにはその資格がねえ」
そして言う。
「リングで世界一の男がおれを待っているんだ」
白木がその心に迫ろうとしても、矢吹丈ははるか遠くにいる。

「ありがとう」と白木に言い残し矢吹丈はリングへ向かいホセと死闘を繰り広げる。
試合前には引き止めた白木であったが、もう見ていられないとリングにタオル投げ入れようとした丹下をさえ制し、矢吹丈の戦いをじっと見届ける。

ホセと戦い抜き、願ったとおり矢吹丈は真っ白な灰となった。
最後、白木を呼びよせ身に付けていたグローブを託す。
「このグローブ、もらってくれ、あんたにもらってほしいんだ」

矢吹や力石、カーロスにホセ、彼らは極限下において強く通じ合うものを交わし合った。
白木葉子の出る幕などない世界だ。
その白木に矢吹丈はグローブを託した。

男子百万人、矢吹丈など滅多に見当たらないし白木葉子など地上に存在する由もないけれど、じっと見守る誰かに最も大事なものを託すという男子の本懐を象徴するこのシーンに胸が熱くなる。

リングサイドで、右だ左だ、もっと足動かせ、気合い入れろ、など好き勝手言う野次馬のことなど知ったことではない。


夕刻、野田駅で降りる。
ホーム地べたに腰おろし車座となる女子高生セブンの横を通り過ぎる。
みな思い思いにブスであり、それが輪となっているものだからどのような視線をも跳ね返し生じた結界が時空間歪め、まっすぐ歩くのも容易ではない。

私自身も不細工加減では負けていない。
その一員となりそこから見える世界を想像してみる。

よっこらしょ、地べたに座っただけで、体は楽になり時間が緩やか流れマンネリの日常の幕が裂ける。
普段見ることのないパノラマが目の前で展開する。

不機嫌仏頂面のおじさんおばさんが無数にそそくさ通り過ぎていく。
どれもこれも冴えない顔してだるそうに歩いている。
そのような光景が繰り返し繰り返し流れ続ける。

どんづまりの閉塞感とはこのことか、と肌で理解できる。
コセコセ歩く隊列から逃れられない息苦しさを見下ろしているのはこちらの方だ。
世間の眼を哀れむような気持ちさえ生じてくる。

おじさんおばさんらは車座の女子高生に眉をひそめ、一方、女子高生らはおじさんおばさんらをせせら笑う。
どちらがどうなろうがお互い知ったことではない。


仕事し疲れれば、たんたんと疲労を抜く。
焦らず弛まず、ゆっくりであっても前に進むのが亀の極意であるが、疲労には勝てない。

道後温泉と同じ成分だという一休の湯につかり、みずきの湯の熱風サウナやアロマサウナで邪気まみれの汗を流し切り、それでも駄目なら田中内科クリニックでニンニク注射を受け、これでもかと執念深く疲労を憎み悪魔払いするみたいに執拗に除去する。
仕上げはビールだ、たまらない。

誰かが認めてくれるとか誰かが分かってくれるとか誰かに労ってもらえるとか、そんな期待含みのさもしい考え方をしていると仕事など続けられない。
誰も関心など持っていない。
あなたのことなど知ったことではない。

それでも、続ける。
自分のためだ。
社会と関わるのが仕事ではあるけれど、もっと突き詰めれば、実は「仕事」というのは、どこまでも個人的なものなのではないだろうか。
仕事を通じ、個を形作っていく。
その様式や思想を仕事の谷において錬磨し、凝縮された伝えるべきものを後に託す。

裏返せば、雑多な他者の思惑など考慮するにも値しない。
無関心が生み出す静かさの何と心地いいことだろう。

もしかしたら、運がよければ、たまに力石やホセなどに出合えるのかもしれない。
じっとその仕事を見守る白木が現れることもあるのかもしれない。

ほとんどが単調で地味な行程を、あんたのことなど知ったことではないと突き放す世間の通りを、個としてしぶとく涼しげに渡り歩いていく。
いま君たちはその準備の段階にある。

道の中途から君らを振り返り、ぶつぶつ言っているけれど最後には決めている。
グローブは、片方ずつ君らに渡すつもりである。
もっと磨いていいものにしていかなければならない。