KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

空虚なパワーゲーム

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世相ウォッチを目的とした場合、数々の著述家の発言を集約的に観察できるのでtwitterは実に有用である。
ちょっとした空き時間、流れるタイムラインに耳をそばだて時にはふむふむと納得できるような収穫もあるので無聊かこつよりは遥かにいい。
それで最近登録したのだった。

見るばかりではなく、あくまでも受け身でひっそりと時折はふと浮かんだ文章を、思いつきを垂れ流すだけの愚の骨頂とはならぬよう、はたまた女房に見放された亭主が漏らす要領得ない空虚な独り言みたいにはならぬよう、懸念しつつも呟くこともある。

先日、風呂上がりにベッドで寝そべり作文の名手である長男が私のつぶやきをiPhoneで読んでいた。
お咎めも指摘事項もなかったので、まあ、踏み外してはいないのであろう。


twitterを始めた目的は有用な世事情報の収集である。
何でもかんでもネットワークを広げようとか、そのためにあれこれ積極的に発言しようとか、思うことはない。

だからtwitterを介して商売っ気たっぷりのアプローチをされても無視するだけなのだが、時にはやり口が巧妙で、つい相手してしまってやがてその浅ましさに気付いて呆れるという無駄骨折る事もないではない。

twitterを使って副収入ゲット、月間何万円!!、経済的自由への扉がネットで開かれる、パソコンひとつで雇われる人生から卒業、、、秘策はこちらをクリック!など悲しくなるほどのアホ言葉が、光の粒となって無数に行き交っている。

そんな情報を流し小銭の算段に明け暮れる方にも、それを鵜呑みにし空疎な夢想にうつつ抜かす方にも、矜持はないのかとお悔やみ申し上げたい気持ちとなる。

徹頭徹尾、頭の先から足の先まで、私のカラダは愚直なまでの勤労細胞で埋め尽くされている。
そんな小賢しい与太話に、食いつくはずがない。


中心地から周縁まで丸ごと含めて場末感漂う事務所周辺であり、そこら居酒屋に入れば下町のおじさん、おばさんらが喧喧諤諤と口角泡を飛ばす様が何の変哲もないノーマルな光景となる。
先日入った焼鳥屋で、バレーボール同好会とおぼしきママさん達が散々盛り上がっている場面に出くわした。

耳澄ますまでもなく各々方の旦那の悪口が聞こえてくる。
お宅はまし、うちはもっと酷いと悪し様に罵る口調は辛辣さを増す一方であり耳だけではなく目も覆いたくなるほどの口汚さであった。
ちょっと笑えるといった微風吹く余地のない他罰的な口ぶりに怖気走る。

「お宅はまし」との評価の存在から、箸にも棒にもかからないほど体たらくの夫ではないにしても、夫のことがみな心底嫌いなのだ。
夫が死んでも悲しみの涙一つこぼれるはずもなく、万歳三唱し朝陽に向かって大笑いする姿が目に浮かぶ。

単身赴任で夫が遠くにいても、たまには中間地点で待ち合わせて一緒に食事したり買い物したりするような夫婦と一体何が異なるのであろう。


色々な言い方が考えられるだろうが、権力志向が強い女性が結婚し専業主婦になってしまうと自らの牙を研ぐ場が失われ、よって、夫への鬱憤募って日々憤懣やる方ないという状態が慢性化しやすいと言えるのではないだろうか。

あたしにも意見がある、夫にも意見がある、どう公平に考えても夫の方が見劣りする。
主導権の争奪戦となれば、負ける訳にはいかない。
いちいちストレスがたまる。

こいつアホやんけ、その念虜が果てしなく転移し病巣を拡大させていく。
もう丸ごと、忌避したい対象となる。

圧迫感すら覚えるほどの近視眼的なせせこましさで、ゼロサムでしかない空虚なパワーゲームを夫婦間で延々繰り広げるだけとなる。

夫を踏みつける以外一頭地抜ける術がない。
であれば無意識裡にも夫はろくでもないほうが我が身の利益となる。

これは誰がどう見ても不毛であり、夫は立つ瀬なく、だからといって女房にも行くところはない。
空虚な時間だけが積み重なって行く。


先日ミヒャエル・ハネケの「アムール」を観てこの日記に書いたばかりだが、この映画は年老いた夫婦間の愛情をモチーフにしている。
妻が半身不随となり夫が介護する。
お涙頂戴といったレベルの話ではなく、老いがもたらす惨たらしいほどの無慈悲さに痛ましいような気持ちなる映画だ。
しかし、その悩ましい姿を直視し描くことで、夫婦というものの本質の一面が浮き彫りとなる。

言葉や役割といったようなもので夫婦とは何かと端的に語ることはできない。
ともに連れ立って過ごして来た、ただその事実だけが、夫婦間の愛情を語り、実質を語る。
あれやこれや多事多難な場面の連続を、別段劇的にでもなく、同じ生活を通じて潜り抜け、そして依然として連れ立って二人は存在している。

夫婦というものは、このような「過ごしてきた軌跡」そのものを指すと言えるのだろう。
古今東西、先人らが感得し伝えられてきた夫婦についての教えなども要はそのようなことを言っているのではないだろうか。

そこら歩いている赤の他人ならいざしらず、伴侶となればああだこうだ悪し様あげつらう相手ではないと心得て、実のある共有の軌跡を築こうとする人もあれば、我が身第一で何もかもを空虚とする人もある、ということなのであろう。