KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

せめて良きフラグメントになれますように


12月24日未明の道路はがら空きであった。
武庫川を渡って西大島で1台を抜き、三和商店街付近で1台に抜かれた以外、車両は皆無であった。

夜中なのにパッチリと目が覚め仕事したくていてもたってもいられなくなるのは例年通りのことである。
こなす仕事量がにわかに増大した2013年の暮れであったが、早起きすれば何でもできるの標語どおり、終盤の際を前に日記書く程度の余白は生まれた。
無事にここまでやり遂げた。
何だか分からないが感謝の念が込み上がる。

仕事中に流すクリスマスソングも今日で最後となる。
取り寄せた岩牡蠣で家族はパーティーのようであるが、父は仕事の後片付けをして、ひとりしばらく感謝の念の余韻に浸る。
何だか分からないけれど、有り難さのようなものを前にしては一人沈思するのが礼に適ったことのように思える。


1993年12月23日、ウィーン市内の銀行で大学生が銃を乱射し3人の命が奪われた。

ハネケの「71フラグメンツ」はこの最終のシーンに向かって進んで行く。
加害者と犠牲者について、その瞬間に至るまでの日常の断片が描かれる。

一見無関係に見える1つ1つのピースが互いを招き寄せ、無惨な結末へと編み込まれていく。

時折入る時事ニュースが時間的なリアリティを際立たせ、唯一重複し描かれるマイケルジャクソンのニュース映像がポップスターの冗談めいた空疎さを浮き彫りにする。

ちょっとした「綾」のようなもの、言葉遣いや、虫の居所、たまたまの巡り合わせ、そのような諸要素がすべて有意な作用を及ぼし、その連なりが物事に多大な影響を及ぼすことになる。
そのようでしかない世界の有り様に厳粛な気持ちにならざるを得ない。

私たちは、数々の「断片」に責任を負っている。
思慮欠けた一挙手一投足や軽はずみな言動が、世の悪意の主要素となることもあるのだと映画が教えてくれる。

ある夫婦が無言で食事するシーンがある。
沈鬱で重苦しい雰囲気が夫婦の日常であるとその様子から分かる。

夫がふと言葉を漏らす。
「愛している」
妻はそれを聞きとがめ、突然そんなこと言うのはおかしい、何か裏があると夫をなじる。

不意に込み上がった夫の吐露は妻には伝わらず、そして数日後、夫は銃乱射の犠牲者となった。

後になって重大な意味を帯びる日常を私たちはどれだけ呑気に見過ごして生きていることだろう。


先日、新進気鋭の若手経営者が事務所を訪れ、成功の秘訣を教えてくれた。

若社長は言った。
ちゃんとお参りすることです。
神様はいるんですよ。

とうの昔、祖母に教えられたことであった。
しかし忙しさにかまけ最近はめっきり足が遠のいていた。
若社長の言葉を通じ祖母が大事なことを私に思い出させてくれたのかもしれない。
感謝の念をこめてたまには手を合わさなければならない。


クリスマスだからとサンタに物乞いしたいものが全くない。
何が欲しいか考えても浮かばない。
欲しい物など何もない。

物欲が枯れるのはいいことのように思える。
大事なことに集中できていることの証だろう。

私という「断片」が少しでもマシな要素となれればそれで十分なことである。

岸和田の案件をひとつ先延ばしにしてしまってたいへん申し訳なかったけれど、あとは順調、とてもいい気分で現在地点を満喫できている。