KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

遠い昔のことを想起する効用1


泳いだ翌日は体調がすこぶるいい。
運動が身体の乗り心地を快適なものにする。

仕事して家族や仲間と飯が食えいい映画と本があればそれで十分満たされる、そのようないたって倹しい人生必須項目に「運動」も付け加えることにしよう。
必須項目の品揃えは身軽ミニマムが一番いい。
あれもこれもと欲かくとたちまちに自身の立脚点が所在不明、どこへ還ればいいのか分からなくなってしまう。

あのボケ、このボケと罵詈雑言まみれで眉間に皺寄せる人があれば、欲張りの成れの果てである可能性がまずは考えられる。


毎日泳げる訳ではない。
長男伴い怒涛の泳ぎの競演と意気込んだが競技会開催とのことで一般客は足指すら水に浸かることができなかった。
やむなく代替としてショピングセンターのスポーツ店へ向かう。

トレシューやらウィンドブレーカーやらを買いクルマへ戻ろうとフロアを横切ると、ベンチに座るどこかの姉妹が目に留まる。
幼い女児が更に幼い女児の顔面にボールを当てているのだからそりゃ誰だって目が留まる。
お遊びといった雰囲気であり柔らかいボールであるから危ないよ怪我するよという話ではないけれど、顔に当てる、という光景はいかにも奇異であり見過ごせない。

と、そこに母親が現れた。
そして、金切り声、ではなく雄叫びのような怒声が上がったのであった。

目を瞑れば、場数踏んできた歴戦のおっさんが派手に叫んでいるとしか思えない。
「しばくぞ、ボケ、カス、殺すぞボケ」
ドス効いて迫力満点の口上に、通りすがりも震え上がる。
何人かは失禁したに違いない。

この母さんはほんまものである。
欲求不満だとかそんな話ではない。

あのボケ、このボケと凄む人の中には、そのような言葉が飛び交う環境、原始の野生ともいうべきオッカナビックリの世界を這い上がってきたほんまものがいるのである。
人間である必要などない世界、ジュラシック・コードと呼ばれる生きるか死ぬかという二元論の世界でサバイバルしてきたからこそ、火が噴いたかのような怒声を発することができるのだ。

太刀打ちできるはずがない。

これは、雷や火山の噴火と同じカテゴリー、広義では自然現象と位置づけられるだろう。

人間だって自然の一部である。
物静かに見えた人が逆上し、真面目に見えた人物が裏で目を覆いたくなるほどの変態ぶりを曝け出す。
つまり思ったとおりが通じない事象こそが自然であり、知らぬが仏、我々はそこで安閑と暮らしているのだ。

北米は寒波に襲来され一方豪州は干魃に見舞われる。
起こるはずもなかったことが実際に生じている。

「日常教」の信者であるとでも言う他ないほど、明日も今日と同じような日が続くと漫然としかし強固に我々は信じているが、一寸先は闇であり、未来が我々を愉快ご満悦で迎えるとは限らないと、頭の隅には置いておかねばならないだろう。


子供にテレビばかり見せることは果たしていいことなのであろうか。
このテーマについては小学生のときに皆で議論したことがあった。

喧々諤々の結果、セイ君の意見に皆が納得し、「見せるべし」との結論が導かれた。

セイ君曰く、字がそれほど読みこなせない子供の段階では、画像ともなう情報ほど吸収しやすいものはなく、その分かりやすい文脈のなかでは加速度的に言葉を覚えることになる、つまり、テレビを見れば見るほど、教養のある子どもが育つことは疑いようがない。

いまやセイ君がどこで何をしているのか風の噂すら聞こえてこないほど年月が経ち、私自身が子の親となった。

幸い、セイ君の意見を信奉し積極的にテレビを見せるといった愚は犯さず済んだ。

見るべき番組も数あれど、ことごとくが、一体何なのだと呆れてやがて戦慄してしまうほどの薄っぺらさである。
空々しいほどの賑やかさ、下品なせせら笑い、所詮は刹那的なことと開き直ったかのような粗忽さが蔓延し、笑い声の他には時間尺に合わせ極小に切り刻まれた断片情報がやたら次々垂れ流されるだけ、これを子に見せるなど、腹減ったら何でも拾って食えという育児放棄と同じようなことではないだろうか。

無制限に子が接していいようなものではないだろう。
視聴に際しては親のチョイスが不可欠である。

テレビを否定している訳ではない。
とても寂しいような暮らしを余儀なくされる場合、内容云々以前に、テレビが暖炉の機能を果たすことがある。
そこで誰かが賑々しく喋っている。
それだけでほっと温かみを覚えるような生活もあるに違いないのだ。

しかしよほど寂しいのでない限り、テレビは消して、何か別ものを暖炉とできる方がいいだろう。

つづく