KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

向き不向きという示唆


カネちゃんのアドバイスはいつだって的を得ている。

そろそろ息子の中学受験準備を考えいるのだがと後輩から相談を受けたとき、カネちゃんの返した回答がド真ん中本質をついていた。

「名の通っている塾のテストを受けさせ様子見て、向いていれば支援し、向いていなければさっさと他のことをさせた方がいい」

通常なら、どこの塾がいいとか悪いとかといった話になるだろう。
しかし、よくよく考えれば、そんな話は二の次三の次の次元の話だ。

まず最初に検証しなければならないのは、「向き不向き」である。
そこに付け加えるとすれば「時期」の検討だけだろう。

全く脈なしと見るか、時期尚早なので当分先送りとするか、一気呵成ここに資源を集中だ、などどのように判断するかは親の見識だろう。
塾の先生に聞いても仕方がない。
塾はそこに資源を集中させることを目的としているのだから。

子にとって全く不向きの活動に無理から身柄拘束される苦痛は、これはもう前途の光絶えるほどに絶望的なものだろう。

抵抗も無駄だと諦めた段階で、子の主電源はOFFとなり、ますますの悪循環、体裁つくろうだけの誤魔化し癖が根付き、跳ね返しようのない痛烈な敗北感に取り返しつかないほどに心を損傷される。

自己評価を下げた卑屈な精神はアンダーマッチングを繰り返すという。
これは後先禍根を残す。
良い結果に結びつく確率は低減していくばかりとなる。

前途これから、ピッカピカの子供たちを、そんな目に遭わせる訳にはいかないだろう。

では、向き不向きとは何なのであろうか。
おそらく、好き嫌いという大雑把な物差しで測れるようなものでないことだけは確かであろう。


相変わらず忙しい。
難敵仕事打ち倒し安堵する間もなく、その次の日にはまた強敵仕事が現れる。
絶え間なく手強い相手に対峙し続ける。
そのような日々が十年以上続き、この先、何十年と続いていく。

今後現れ出る強敵の姿をパノラマ的に一気一望するとすれば青息吐息へたり込んでしまう。
そんな悪趣味な想像の画像は即座打ち消し、眼前の敵に集中しなければ根気がもたない。

その全貌から目を逸らさねばやっていられないのであるから、この仕事が好きか嫌いかと問われれば、「嫌い」という答えが出るのも当然だろう。

しかし、好き嫌いという価値評価は、一時的かつ一次的な表層の「反応」のレベルまでを包含する物差しなので、人が頼みとする「価値」としては、相当にいい加減なものであると知っておいた方がいい。

表層から深層に渡って、また、時間の流れのなか、好きだが嫌い、嫌いだが好き、というまだら紋様の混線が四六時中起こる。

気象レーダーに映る晴れマークや雨マークみたいに混在し、それは必ずしも西から東へと移動するわけではなく、やたらめったの神出鬼没で現れ消える。

うかつに、これは一生晴れだ、大好きだ、と断定できるようなものではない。


相変わらず忙しいが、仕事に悦びを感じることも数多い。

連続する学びの日々は成長のチャンスと今後の可能性の示唆に満ち溢れ、希望が枯れることはなく、能力の増大感はこれはもう仕事冥利に尽きるものであり、そして何より、人との交流によって得られる感謝の念は、私自身の根本的な幸福感の源泉となり、より濃密なものとなっていく。

多少つらかろうが、たまに嫌なことがあろうが、それら打ち消して余るほどに糧と悦の多い仕事人生であると言えるだろう。

そして、時系列で振り返ったとき、日々の「反応レベル」の学びの集大成がいかなる意味を帯びたものであるのか、メタ的視点でその学びの構造を感知することができる。
その構造は、まさしく今後の行く末について暗示的な示唆をもたらすものであり、今後ますます有意な学びの連続の道を辿っていくのだという手応えのようなものを感じることができる。

向き、不向き、ということであれば、私自身にとって、この仕事は、向いている、と言えるだろう。

退屈極まりない勤勉な生活態度を貫き続け、いつだって落とし穴を警戒し気は抜けず、心身ともどもパンパンに張って仕方ない仕事であるが、「向いている」ことは確かであろう。

ちっぽけな人間一個には、「向いている」という感知程度が精一杯のことである。

さらに上位のメタ的認知で見れば、もっと明瞭な何か、筋書きのようなものがあるのかもしれないが、それはもう人知を超えた話であり、ヒトレベルの他愛ない思考の出る幕ではないだろう。

この道筋をたどり、どのような局面がこの先訪れるのかは未知ではあるが、老いてますます円熟し真骨頂発揮し続けるベクトル、その時間の流れの中にあるという実質感、それだけで感謝の念とともに十分に幸福を覚える。

是非とも子らには、そのような「向く」流れに沿う仕事人生を送ってもらいたいと思う。


時間には二種類あるという。
時計が刻むクロノス的時間と、忘我のうち過ぎるカイロス的時間。

他者に捧げる時間がクロノス的時間で、自己に献じられる時間がカイロス的時間と言えるかもしれない。

向き不向きのうち、「向く」流れにあれば、クロノス的時間はカイロス的時間へとどんどん置き換わっていく。

私たちはなぜだか知らず、何かに対して開き、何かに対して閉じている。
ある人は見向きもしないのに、ある人にとっては心捉えて離さない。

何かそのような根本的な性向があらかじめセットされていると言えるのではないだろうか。

向き不向きは、如何ともし難いほどに分かち難く、我々個々の本性に結びついているのであろう。

そして、「向く」流れに入れば、時間は忘我の悦びのうちに過ぎていく。


「向く」方向のエッセンス詰まった何かをさしあたり、男女問わず金玉と表現するとすれば、両親の最低限のつとめは、金玉を取らないこと、となる。

より良く生きるため、金玉が絶対的に大事なポイントとなる。

子らは、暴君に金玉を差し出してはならない。

金玉取られてしまえば「じゃりン子チエ」に登場するネコみたいに、ケンカに負け続けるだけではなく、まっすぐ歩くことすらできなくなってしまうのだ。