KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

いい塾の定義について甲子園球場で語り合う


甲子園球場で行われる阪神オリックス戦に誘われたはいいが雨模様である。
仕事中も天気予報が気になる。

天気回復傾向なのだろうか、午後には晴れ間が見え、夕刻の天気予報は曇りとなっている。
降水確率100%からまさかの形勢逆転。
それで喜び、早めに到着したその足でららぽーと甲子園に向かい肴の調達に走る。

食品売り場に屋台の出店があり、タコや貝類などの海鮮モノが販売されている。
ちょうどいい。
店頭に並べられたパックの前に100g682円と値札があり、2パックを注文した。

おばちゃんがニコニコ言う。
5,200円也。

耳を疑った。
そんなアホな。
682円というのは100gの値段なのであって、そのパックはその重量によって値が決まるのであった。
いらんわ、と1パック分は返品した。

そもそもパック詰めにして陳列しているなら、その実際の値段をこそ表示すべきだろう、とそんなまともな話をぼったくりにしても仕方ない。
人をおちょくるにも程がある。

かつてコープに出店するキムチ屋に、全く同じような商法でぼったくられたことがある。
グラム当たりの値段表示だけされたパック詰めのキムチ買って4,000円以上のお勘定となった。
一瞬たじろいだが、男は度胸と支払ってしまった。

私のようなお馬鹿がいるから、ボッタクリ屋は今日も笑いが止まらない。

ひとつ隣の屋台ではイカ飯が販売されている。
これはどれも1パック800円。
価格表示が分かりやすくてありがたい。
ひとつ下さいと注文すると、いくつか測って一番重みあるイカ飯のパックを渡してくれた。

屋台隣り合ってさえ商売の流儀はこうも異なるものなのだ。


強く雨が降り出すが、トラキチたちは粛々と列なし球場へ向かう。
雨宿りしているとカネちゃんから電話があった。
アイビー席の入口へと走ってカネちゃんを探す。

私は雨合羽を着ているカネちゃんを識別できず、カネちゃんは糖質制限で痩せた私を識別できない。

雨に濡れつつ僅か空白の時間を経て、やっとお互いを見つけ合った。


観戦しつつ互いの近況について語り合う。
天王寺と上本町で校舎は異なるが同じ塾に通わせているので、おのずと話題は子の勉強の話になってくる。

真後ろの女性の野次が雨にけぶる空間を時折つんざく。
あまりの迫力であり振り返って見ることができない。

インスタントラーメンとポテトチップスばかり食べて仕上がったギトギト脂性のデブに違いなく、髪は陰毛みたいに下品なカールでパッサパサ、顔は粘土こねた方がはるかにましだろうというほどの不細工さに違いない。
目が合えば、怪獣みたいな腕っ節で胸ぐら掴まれかねない。

そのような想像を巡らせつつ、怪獣が吠える合間は話を休止し塾やらの情報交換を続ける。

大手進学塾と家庭不和には相関があると彼は最近の知見を披露してくれる。
こなす意義について吟味検討されることのない課題はまるで無差別爆弾みたいなものであり、子の処理能力を超えた途端に各家庭上空で炸裂し、善良な父兄は抗する手立てないまま爆撃に晒され続ける。
そのうち夫婦でいがみ合い、子を叱責し、ああこの結婚自体が間違いだったと家族の心は離散し各々天を仰いで後悔と悲嘆にくれる余生を余儀なくされる。

彼の話はいつだっておもしろい。
ビールが進む。

同じ程度の優秀さの生徒でも塾によって完成度が異なるという話が続く。
細かなチェックなどなされない塾では、間違った漢字でも丸されていたり、おかしな解法でも問題視されずそのまま放置され、いざ入試の際、そのようないい加減なアウトプットは当然得点にならず、意に反する結果に見舞われることになる。
日頃のノートチェックや丹念な丸つけ、答案作成過程のフィードバックまでしてくれるような塾、そのような役目負う責任者が明確な塾では、手抜き出鱈目なことは起こり難いので、いざ本番となったときに、相当に強力なアドバンテージがあるのと同じである。

T岡田が放った打球が大きな弧を描き右中間スタンドに飛び込んでいった。
目を奪われるのもつかの間、後ろの怪獣が、「なんで勝負するねん、歩かせるやろ、素人でも分かるわ」と絶叫し始める。

その怪獣を視認しようと思い切って後ろを振り返ってみた。

そこにいたのは怪獣ではなかった。
楚々とした表情の細面の美貌であり、腕は隣席の彼氏に絡ませしっかり手を握り合っている。
がさつな音声取り除けば、しっぽり静かなデートのムードである。

日頃の鬱憤を彼女はグランドに向かって雄叫び解き放ち、彼氏はきっとそのような趣向の人物なのであろう。
プレーボールとともに始まる野次絶叫プレーという言葉で言い表すのが適当だろうか。

塾での無差別爆撃に晒され家庭不和となるより、よほど健全微笑ましい。


100g682円というのは、陳列されたパックを求める買物客にとっては何の意味も為さない「抽象」そのものである。
100gがどれほどの量なのか皆目見当もつかないのだから指標としての意味を果たさない。

合格者数をはじめとして、塾についてもこのような意味ありげだが実のところ用を為さない「抽象」が跳梁跋扈している。

誰がどう考えても分かる通り、受験というのは足の先から頭の先まですべて「具体」に対処すべきプロセスである。
志望校の選定から合格までのアプローチには、これでもかというほどに正確精緻な具体性が敷き詰められねばならない。

課題の分量ときめ細かなレベル設定、日々の勉強指針についてのアナウンス、受験までのスケジュール策定、弱点や錯誤を修正するための折々のフィードバック、心身状態のチェック、能力の評価と目標までの差異の評価、絶え間なく行わねばならない不足分の補充、そして父兄への報告と意思確認、、、これらは、身も蓋もないほどに具体的なものでなければならない。

「がんばろう」や「とことんやろう」といった言葉など枕詞に過ぎず、それで済ますとするなら塾の任務である具体の放棄、抽象への逃走と断ぜられることであろう。

そして、「具体」な対処には労苦が伴う。
知識を総動員し、情報のアンテナ張り巡らせ、生徒の動向や様子に目を配り、課題の取捨選択を行い、面談し声を拾い、進捗を管理し、対策を講じる、「具体」にはすべて手足動かすことが伴ってくる。

幼ながら自ら「具体的」な自己管理がデキる子など万に一人といったものであろうから、プロによるそれら具体な支援が途絶えれば、たちまち本人の成績は急降下することだろう。

だからこそ、いい塾なのであれば、わざわざ通わせる意味が生じるのである。
本人に必要となる「具体」に骨折って対応してくれる、それこそが良い塾の究極の定義と言えるだろう。
いくら耳当たり良かろうが何だか要領得ない「抽象」な要素が増えれば、ミスリードのリスクは高まるばかり、それはもう悪い塾というしかない。

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