KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

死に際しての備え1


今年の星のしるべ33期夏会は8月の終わり、四天王寺のワッシーズで行われる。
年に一度か二度、中学高校連れ添った仲間が一堂に会し近況を語りその無事を確認し合う。

近況や無事についてその情報を交換するのであるからこれは地縁血縁レベルの次元の繋がりであると言える。
いや、いまや地域社会や大家族が解体の過程を辿る。
であれば学校というのは人が属す共同体としてそこら地縁血縁よりもはるかに濃いものであると言えるかもしれない。

皆が皆、年齢的には人生半ばを過ぎた。
折り返してさあこれから人生の集大成へと向かう途上での決起激励会という趣旨も込められる。

有志集う限り開催され続ける。
健康面ではなだらかな下り坂、一人抜け、二人抜けしてゆき、しかし、思い出として誰一人としてその場賑わす役割を失うことはない。


姜くんが九死に一生を得て、本当に幸いなことに思い出としてではなく、現在進行形の元気な姿で参加してくれる予定だ。

ブログ「きょうクリいんちょのきょうはボチボチ」で明かされたとおり、彼はトライアスロンの最中に心肺停止に陥り死線さまよったが幸運重なり奇跡的に一命を取り留めることができた。

彼は在り方の理念としてボチボチを標榜していたけれど、実際はそれとは真逆、日々の診察業務の他に講演やらであちこち飛び回り、トライアスロンの練習のため走って泳いでバイクまで漕ぎ、ブログを毎日欠かさずそれだけでなく本まで書くという、ボチボチの対極、バリバリガンガンとしか言いようのない日常を送っていた。

自身が停車することのない特急列車と化して、勢い緩めることなくどこまで進むのだ、という有り様であったのだが、今回のトライアスロン中の事故でやっとのこと停車することができたと言えるだろう。
おそらく今後はほんとうの意味でのボチボチイズムを体現していくことになるのだろう。


姜くんの身に起こったことについては、その報が我々の間を駆け巡り、各自の死生観を再考させるような波紋が生じた。
芦屋の院長もそのブログ「阿部レディースクリニックのもっと言いたいこと・改めて死生観を考える」において言及している。

姜くんは心肺停止となった後、徐々に意識を回復する過程を振り返り次のような主旨のことを述べている。

死は一切が無に帰す電源OFFの状態、すべての終わりである。
臨死体験などで語られるお定まりの風景やお迎えなど皆無であった。
生をまたいだ境界の向こう側には何も存在しない。
無であった。

これほどに命のかけがえのなさを喚起させる言葉はないだろう。

これからは大事に生きていく、と語った姜くんの言葉は皆の胸に沁み入った。


死に際しての意識についてはこれはもうよく分からないとしか言いようがない。

かつてこの日記「天国と地獄」 に書いたみたいな漠然としたイメージがある程度だ。

穏やかな臨終の間際、子らに看取られる夢うつつのなか、生の波形が漸近線のように限りなく地を這って、時間感覚が極大化していく。
忘我のなか意識のスクリーンには、これまでの全て良き思い出が静止画のように映し出され、その喜びと感謝の余韻のなか静かゆっくりと意識の幕が閉じられていく。
そして穏やかな無に包まれる。

そんな風に漠然と考え機嫌よく生きてきたが、姜くんの話を読んで再考を促された。

姜くんが実感したように、フェードアウトではなくいきなりのカットアウト。
たちまち電源が落ちるようなことについても心の備えはしておく必要があるようだ。


今回姜くんは、死の先については何もないという確信に至った。
死後の世界などあるはずがない、と彼は言う。

死の先については、無というしかないほどに不明としか言いようがない。
そもそも死んだことがないから分からないし、第一、ヒトの尺度で解釈できるようなものではないのかもしれない。

路傍を這うアリには道端に落ちている飴玉の存在は識別できても、いま這う道がどこに繋がっているのか分からない、俯瞰してみて現在地点がどこなのか皆目見当もつかない、といったくらいに、人にとって存在や無というものは絶望的に不明な世界であろう。

どの道不明であるならば、ヒトが有する理屈の語彙ではとても解き明かしようのない世界、何だか分からない世界に在るのだと謙虚たたずむのが身の程にあった賢明さと言えるかもしれない。

分かりやすい説明ほど眉唾ものだろう。
説明のつけようのないほど摩訶不思議な世界であるのに、貧相な語彙の範疇で何でも分かったように語る輩がどれほど多くいることだろう。
裏を返せば、分かったような口をきく高慢なやつほどイージーなロジックで翻弄できるということだ。