KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

何が何でも機嫌良く生きる


朝5時の二号線、尼崎の玉出界隈に少し奇妙なおばさんが出没する。

カジュアルな服装からして、ウォーキングやジョギングしている、一見そのように見える。

しかし、かかとが尻につくほど大きく足を振ってピョンピョン飛び跳ねる様はジョギングのカテゴリーに入る動きとは言えず、時折立ち止まっては信号待ちのクルマにお辞儀したり路傍の草花に手を合わせ、そしてまたピョンピョンするので、これは何か運動の類と言うよりは、何らかの儀式のようなもの、と解釈したほうが適切だろう。

原始の部族が天上の神に雨乞いしているとしたら、おそらくはこんな振り付けかもしれない。

明け方とはいえ夏なので結構蒸すのだが、顔をマスクで覆っているから表情の詳細については分からない。
しかし、帽子とマスクの間に覗き見える細い眼が「へへ」の字型となっているので、
笑っていることだけは確かである。

どこからどう見ても少し変わった人というしかないのであるが、その足取りや仕草が楽しい感じに溢れているので、真相は分からないによせ本人はとても機嫌よく健やか清々しい朝の時間を過ごしているのであろう。

機嫌よく過ごしているのなら、加害行為とならない限りはそれがどのように映ろうと、他人がとやかく言う事ではない。

機嫌よく過ごす権利を何人も侵してはならない。


2014年8月5日、とうとう朝日新聞が、従軍慰安婦報道の無根拠性と虚偽性を認め、謝罪し過去の記事を撤回した。

読んでタメになった、得したと思える記事が朝日と毎日に多いので、自宅で朝日、事務所で毎日を読むのだが、朝日読んでますと堂々と言えない雰囲気が慰安婦報道を巡って続いていた。

覆水盆に返らずにせよ、日本にとってあまりにこっぴどい汚名であるので、朝日にはその返上に向け力を尽くしてほしいところだと、その日午前、市井の話題は朝日で持ち切りであったが、理研の笹井さんが自殺したとの速報が駆け巡り、みな天を仰いで絶句し、絶句したままがっくりうなだれることになった。

これほどガックリくるニュースはそうそうない。
なんて根暗な世の中なのだと息が苦しくなる。

笑みさえ浮かべていた在りし日の笹井さんの姿がテレビで流れ、その一方で、一人階段の踊り場で半袖の白のシャツにスラックス姿で遺書の入ったカバンを傍らに置き首を吊ったと伝えられるのであるが、天地の差ほどあるその対比が呑み込めない。

大半の日本人同様、私自身も笹井さんとは縁もゆかりも無いけれど、何が何だか分からないまま、悲しみのようなものに心が占められていく。
取り返しつかない痛ましい見せ物を傍観していたような後味の悪さが広がっていく。


君のためなら千回でも」というアフガニスタンを舞台にした映画のなか、石打の刑の場面が挿入される。

サッカーの試合のハーフタイムに、姦淫したという女性がトラックの荷台に乗せられ運ばれてくる。

スタジアムの衆人環視のもと、その女性は頭からズタ袋を被せられ地べたに座らされる。

原理主義者がその女性の罪状を読み上げ、観衆が一体となるムードのなか、女性をののしり、そして、石打の刑がはじまっていく。

ボッコ、ボッコとゴツゴツ大ぶりの石を、よってたかって、女性にぶつけていく。

人間とはこんな無惨なことをする存在なのであると見せつけられ、ただただ身が竦み上がる。


笹井さんも、何だか分からないような「衆人」に容赦なく「石」をボッコボッコとぶつけられたようなものではないか。

大半は何の値打ちもないような、暇を持て余したような「うたかたの虚業者」が、格好の腕ならしにと汚れきった手で石ころをホレホレとぶつけはじめ、いつの間にかそのような行為につられ、まるで笹井さんが公認の標的であるかのように、縁もゆかりも利害も何もない部外者までこぞって面白おかしく石をぶつけはじめる。

石投げ祭りの様相を呈し、ここまでくるともう誰にも止められない。


石打の刑を行う野蛮な原理主義者やナショナリストが悪しざまにあげつらう東アジアの品性粗悪な人品に比べ、日本人が優しく穏やかなんて、誤解もはなはだしい。

定点観測として、一例として大阪人の所業と振る舞いを見れば、日本人だって相当なものであると分かるはずだ。
日本人が唾棄し毛嫌いするような性質はもれなく当の日本人にも備わったものであり、いずれ五十歩百歩だとすぐに納得できる。

経済的に余裕があるから、または世間の目が行き届いているからという程度の理由で、多少の濃淡があるだけのことであり、日本人が他国の人間と比較して善良なんて美化にもほどあると知らねばならない。


いつ何時自分自身が石打の標的にされるか分からない。

なにしろ「やつら」は始終目を光らせて獲物を探しまわっている。

「やつら」はその薄汚い手に握った石を投げたくて投げたくて我慢できないという半ば狂った状態にある。

だから、全くいわれないことであっても、誤射されることがあり、誤射にも関わらずそれを合図に後続の石が飛んでくる。

他の標的が現れるまで石が止むことはない。

石を投げ返す反撃に出て勝算ある場合をのぞき何をやっても無駄なので、このような状況に訪れられたら、自らでは取り合わない、というのが最も賢明な態度となるだろう。
幸い、実際の石ではないので、精神的なダメージを回避することに集中すればいい。
非難にさらされ、自らまでそれに同調すれば、これはもう孤立無援だ。

こいつだけは石を投げてこないという友達の存在が大事である。
その中に分け入り奥にすっこんで石つぶてが止むのを待つ。

そこで思慮ある言葉に接し、自らを省みて改めるべきは改め、後は風呂に入り、美味いもん食べ、人知及ばない領域についてはどこ吹く風と割り切って、あくまで人生を謳歌する。

何が何でも機嫌良く生きる、それを誰にも侵害させない。
そのような無頓着なほどの気概が必ず必要だと、石が飛び交う世をみて痛感し君たちに話しておくことにする。