KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

旅する家族



台風11号が去って晴れてお盆が到来した。
いつもどおり身支度整え出発する。

朝4:50、歌島橋の交差点。
一人の女性が信号待ちのタクシーを見つけて手を振り走ってくる。
スーツケースをトランクに放り込む。
これから旅行なのだろう。

この夏、我が家は旅行をしない。
そしてこの先、子らが大きくなるに従い予定はほとんど合わず、また男子であるから家族旅行など鬱陶しがるようになるかもしれない。
だから今回旅行がないということだけではなく、実は我が家の家族旅行はもう終わったのだと考えた方がいいのだろう。

後はそれぞれ別々に、各自別行動となっていく。
それはそれで仕方のないことだ。
子らは各自の世界に身を置くことになる。
家族だけが全てではない。

その昔、私は一人旅の男であった。
時間は円環し、そこへ回帰する時期が訪れようとしているということだ。
カムバック一人旅の男。
出立に際しての心沸き立つ感が込み上がってくる。

二号線を進みつつ、浮かんでは消える若き頃の場面場面を懐かしむ。


東京で一人暮らししていた当時の日常は根暗なものであった。
もちろん、邪気に楽しい思い出も数多いが、目を凝らせばしんと静まり返った孤独のなか若気の無力の檻のなかにあった自分の姿が見えてくる。

野方六丁目のワンルームに住み一人暮らしの寂寥を相方にして過ごしていた。
友人もいたし少しくらいは春めいた話もあったにせよ、無知で無力な半端男が幸福であるはずがなかった。
もしそれでハッピー晴天、弾む心でピョンピョンルンルンであれば、途上の男子としてはパーと断ずるしかないだろう。

昼は大学のカフェテリアか周辺の食事処で友人と食べるが、朝はコンビニで弁当を買い狭苦しい303号室で小型テレビ見つつ食べ、夕は野方のスーパーで買った惣菜やら食べテレビ見て過ごすという、もっぱら「個食」の日々であった。

「個食」はサル的であるらしい。
サルは一緒に食を囲むということがない。
分け合うという行動様式はサルには備わっておらず、取り合って諍いが起こるか、ボスに奪われるだけなので、必ずコソコソと個食する。
ヒトからみればサルが何とも卑しい奴らに思える。

大学生の頃の私がまるでサルもどきでひねくれていたのは個食が多すぎたせいかもしれない。


忙しくなると仕事場に籠るので朝はコンビニ、昼は定食屋、夜は牛丼チェーンなどかつての個食時代の様相となることもあるけれど、そのような個食は家族と一緒に食事することと比べれば、何を食べたところで貧相極まる食事というしかない。

もし私が大学生以来一貫して個食を続けていれば、全く別の人間になっていたことだろう。
エゴの強い、もしくは極端に弱い、つまり、ボスか下っ端というサル的ヒエラルキーでしか物事を捉えられないような薄っぺらな権力主義者になっていたかもしれない。
上と見ればこびへつらい、下と見ればふんぞり返る。

そのパワーゲームだけが生きがいでその線にそった力の獲得だけが人生のすべて。
サルだ。

そうそうついでに君たちに言っておくが、サルを伴侶にするのはよした方がいい。
つまらないパワーゲームに付き合わされるのは、これは本当につまらないからである。
とてもヒトには耐え難い。


時々は、その「檻」から外界へ飛び出した。
旅だけが解放であった。

旅によって日常と一歩距離を置く。
未知の自己像が姿を現し、近視眼的視野が広く矯正される。
見逃していた何かにはたと気づく。

そして心身リフレッシュし、同時にバージョンアップした意識で手に何か携え日常に還ってくる。

若い頃はさんざ旅せよと君たちに言いつつ、私自身もまた一人旅への憧憬が強まってきて抑え難い。

そのようにしよう。
旅する家族、いいではないか。

行き先が重なれば、随行もありだろう。

かつて若い頃、旅先では決まってあれこれ絵葉書を買い、走り書きして日本へ送った。

当時君たちがいれば、君たちあてに絵葉書送ったことだろう。
今では絵葉書にする必要がない。
この日記自体が、絵葉書のようなものである。