KORANIKATARUTOKIDOKI

子らに語る時々日記

なかにはやがて悲しき12歳の曲芸師


朝、クルマに乗り込むがエンジンがかからず自宅にJAFを呼び予定より一時間遅れで墓参りに向かう。
隣に長男を乗せる。
ちょっとしたドライブ気分である。

昨晩彼が一人ガーデンズで見た映画ゴジラについて話を聞く。
神経参るほどに圧倒的な存在感、ゴジラを存分に満喫できたようだ。
今夜は別の映画にするという。
トランスフォーマーかマレフィセント。
明日の夜はとなりのマーニー。

近所のガーデンズを有効活用して趣味が映画という境地に入りつつある。
しめしめである。
映画談義で酒酌み交わす長男との未来の一場面が頭を過ってニヤケてしまう。

阪神高速神戸線から東大阪線に入って生駒トンネルをくぐって奈良に出る。
山上にある霊園を目指すがついつい長男との話に夢中になって私は目的地を通り過ぎてしまった。
せっかくトンネルくぐって奈良に出たのに、途中Uターンして引き返せるようなポイントも見つけられず、阪奈道路下って何のことやら大阪に戻ることになった。
スゴスゴと山を下り、振り出しに戻ったようなものである。

山の麓で迂回し、今度は阪奈道路登って奈良方面へ向かい山上を目指す。
霊園の入り口を注視しつつ右折しようやく到着をみた。


長男と順々に墓に手を合わせ霊園をあとにする。
夏の塾で新しくできた友達について話を聞く。

話題に上がる初登場の人物について、説明の最初に付される属性は学校名だ。
大日本中学の鈴木ってやつがいてさ、そいつは家が堺やねんけど、めっちゃ面白いねん、といった風に学校名が先に来る。

日頃意識する以上に、人の属性において学校が占める割合は大きいようだ。
進学校であれ、スポーツ強豪校であれ、やたらケンカの強い学校であれ、そういえば我々は、学校名で人を語るケースが非常に多い。

良し悪しはおくとして、我々の文化においてはコミュニケーションの際に校名が不可欠なほどに深く根付いた標識となっていることが分かる。

そして塾の内容が簡単すぎて話にならないといった話となる。
学校で取り組む内容の方がはるかに高度で進度も早い。

何事からも人は学べる。
無駄なことは何一つない。
どの道空き時間、無為に過ごすよりはるかにましだろう。
第一、友だちができたのなら意義あったということではないか。

と長男には言いつつ、不経済なことをしてしまったと密か反省する。
来年以降については夏の過ごさせ方を再考せざるを得ない。


その日の夜。
今度は同じクルマで二男を乗せ、帰途につく。

Youtubeでみたスクールウォーズについて意見を交わす。
たまたま私の友人がその話題に触れていて、その名場面「悔しくないのか」を仕事場で一緒に見たのだった。

今のご時世ではお目にかかれない年代物の年季入った泥臭い演出に二男は度肝抜かれたようである。
皆が一緒になって声をあげて泣き、監督が愛情表現として選手一人一人に鉄拳を食らわせる。

二男なりに感ずるところはあったようで心動かされつつも、しかし、それをどう評価し受け止めればいいのか留保し戸惑っている様子であった。

人間なのでついついこのような感情的な盛り上がりにつられ影響受けることはやむを得ない。
しかし、やはりこのような扇動的表現は、昨今流行りの言葉を使えば、ヤンキー的アゲアゲ主義という他ないであろう。

「悔しい」の次に「勝ちたい」が来て、それで泣いて殴ってその気になってガムシャラに頑張る、というプロセスに当事者として巻き込まれた場合に冷水浴びせるのは至難の技であろう。

しかし、現実においては誰かが感情の渦から距離を置き、現状分析や今後の中長期戦略についての策定を始めなければ何も解決しないと知っておかねばらならない。

感情に埋もれ痺れて恍惚となるのは気持ちいいけれど、ああでもないこうでもないと頭ひねる地味でしんどい作業が欠ければ、単なる感情の歌合戦。

泣いて勝てれば苦労はしない、ここには何かが欠けている、そう直感できる子は、このようなドラマには感動できない。

そうそう、感動しなくていいのだよ、と二男に教えてあげた。
自分自身の感想に自信を持てばいい。


塾にいる天才くんの話になる。
凄いやつがゴロゴロいるという。

親として、そういった現象は一時的一断面の話なのだよと教えなければならない。
お盆休みのさなか43号線はガラ空きである。
私は二男に話し始める。

遠い昔の大阪に、阪神受験研究会という精鋭を集めた虎の穴ともよぶべき名門塾があった。

私が属したときにも、やたらとずば抜けて賢い連中、一体何なのだという猛者が揃っていた。
当時は思った、バケモノだ、逆立ちしても勝てる訳がない。

しかし、時は経過し世は無常、物事はすべて変化する。

バケモノたちのうち、第一線のバケモノ達はそのままピカイチくすむことなく輝き続け、その一方、大半はバケモノからごくごく標準的な職業人へと収束し、そしてごく一部については、一体何が起こったのだと見る影もないほど精彩のない存在へと成り果てた。

いま君のまわりにいる天才くんたちのうち、天才くんのまま優秀さを発揮し続ける者もあるだろうが、一寸先は不連続、成長過程の一時点における数科目程度の成績でその先まで確定的に見通せるものではない。

子供時分にたかがお勉強ができたくらいで世の中渡れるものではないのである。
それに12歳であれば表出する能力のうち大半は親や塾に由来するだけのことでしかないかもしれない。
そうであればますます覚束ない。

12歳で突出して勉強ができる、これは、世の中の実戦に繰り出す際のアドバンテージとはなっても、決定的な武器とはならないのである。

押し寄せてくるあれやこれやに対していつまでも親や塾が面倒見てくれる訳ではない。

尽きない諸問題や不条理を自らハンドオフしつつ、自ら動機や意欲を生成し続け、問題そのものに対峙するだけでなく、その背景に目を配り、時間軸における因果を見通し続けなければ成果は生まれない。

私の友人など、ピカイチに優秀な連中は、みなそのように、一段次元の高い認知の世界にあると言える。

AかBか問われ、12歳の曲芸師は素早く迅速に解を出すだろう。
しかしそんなもの、社会においてはだから何なのだ、なのである。

AかBか、なぜそれが問われるのか熟慮し理解した上で、適切な解を得るにはどうすればいいかAやBに拘泥することなく幾通りも考え、その解が出てそれでどうなるのかという後先の見通しまでつける、それくらいの思考の射程があってはじめて、大人の次元の問題解決が果たせると言えるだろう。

12歳で身についた「曲芸」について、それ自体が凄いのだと幼稚にふんぞりかえる奴が果てしなく多く、大の大人になってまでおれは凄いと過去の栄光を生きるよすがにする哀れ者が絶えない。
これは罪作りなことである。

身についた「曲芸」の意味について考え、それを自分にとってどのようなものであるか適切に位置づけた上で次なる第二ステージに進む知性の有無が、その先も優秀な者であるかどうか、幼稚でつまらない奴で終わってしまうかを分ける。

私の周囲のどこまでも優秀な人物らは一様にこの見解に頷くことであろう。